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ジョセフ・ウォルフ コンサート・レビュー


ジョセフ・ウォルフ(指揮) アイルランド国立交響楽団  
ソリスト:タスミン・リトル(ヴァイオリン) 
会場:ナショナル・コンサート・ホール(ダブリン)

モーツアルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
エルガー
:ヴァイオリン協奏曲
シベリウス:交響曲第1番


 まずは、注目されるモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ序曲』。その冒頭の何小節かを聴いただけで、この新進気鋭のイギリス人指揮者ジョセフ・ウォルフが、パワフルで凝縮力の高い演奏を志向し、かつ、その激しさを制御する力を備えていることがはっきりとわかる。この特性は、コンサートの最後に演奏されたシベリウスの『交響曲第1番』においても現れていた。
聴く者の心を捉えて離さぬその演奏は、リズミカルな活力に満ちており、持続的な推進力を生み出していくウォルフの手法が意図通りの効果を挙げていた。
 演奏にみられる強さは直感的なもので、ヴォリュームやテンポの極みにおいてとにかく強い。しかしながら、比較的穏やかな部分では、繊細なグラデーションに乏しかった。オーケストラのバランスとしても、若干統制に欠けるものがあった。
 それでも、これだけの力強く献身的な演奏は、聴衆の温かい拍手を受けるにふさわしいものであった。
 このような印象はあったものの、休憩の前に繰り広げられた演奏、それは私個人の記憶に長く留まるであろう。その素晴らしさは、独奏者タスミン・リトルがこのエルガーの協奏曲でみせた完璧な演奏のためだけではない。
リトルはこの曲を苦もなく、あっさりと弾ききった。効果を狙って聴衆に媚びることも一切ない。全てが自然に流れている。何が素晴らしいといって、作曲家自身が「非常に感情的な、感情的に過ぎるほどである」と表現するほどの作品が、全く感傷を排した演奏によって、これほどまでに深く捉えられていたことである。
 ソリストと指揮者、そしてオーケストラの間にどのような力関係が働いていたかを的確に指摘するのは難しい。というのも、三者全てが一体として機能していたからだ。全ての演奏者が、十分に曲を読み取り理解し、そして同様にしっかりと音に耳を澄ますことで、エルガーによる複雑なオーケストラ・スコアも精妙に処理されていた。
 エルガーが、オーケストラの音色にヴァイオリンのソロ・パートを巧妙に織り込んでいる様が、美しく表現されていた。これは稀有なことである。いかなるオーケストラや指揮者、ソリストをもってしても、これだけの卓越した演奏はなかなか達し得るものではなく、よってこの演奏の完全さは大切に記憶にとどめたい。

マルティン・アダムス
アイリッシュ・タイムズ紙 2007年9月28日付



ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 2007年3月

自信みなぎる若さ
 舞台に登場した3人の情熱的な指揮にポール・ドライバーが喝采を送る
 ダニエル・ハーディング、イアン・ヴォルコフ、ジョセフ・ウォルフ 


 そして、第三の若き指揮者に出会った。ジョセフ・ウォルフがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共に、シューベルト、サン・サーンス、シベリウスという充実したプログラムでクィーン・エリザベス・ホールに登場したのである。ウォルフはコリン・ディヴィスの息子である。(因みにヴォルコフの亡くなった父親はイスラエル・ピアノ・トリオのピアニストであった)このような指揮者の家系は珍しいことではない。クライバー親子やヤンソンス親子、ヤルヴィ親子などが思い浮かぶ。しかしながら、ウォルフが身体的な面で極めて似ている指揮者はグスタフ・マーラーである。ウォルフの印象は好感が持て、熱く情熱的であり、そしてよく準備がなされていた。彼は楽譜を目の前に置いていた。が、シューベルトの交響曲第8番とシベリウスの交響曲第1番でその楽譜に目をやることはほとんどなかった。彼のシューベルトの演奏は力強く、かつ、悲劇的な緊張をはらみ、シベリウスはより生(き)のままの、束縛をあまり感じさせない演奏であった。この2曲の合間には、サン・サーンスの2曲のチェロ協奏曲のうち第1番イ短調を、驚くほど技量の高いソリスト、ピーター・ウィスペルウェイと共に、魅惑的な演奏で聴かせた。全曲が短調のプログラムであった。


サンデー・タイムズ紙 2007年4月1日付



これから活躍が大いに期待される指揮者ジョセフ・ウォルフが、ロマン主義音楽の黎明期からその輝かしい終焉に至るまでの作品をカバーしたこのコンサート全体をとりしきった。プログラムには音楽史上ちょうどその中間期に当たる協奏曲が挿入されている。
 シューベルトの「未完成」(彼は初めの2楽章しか完成させていない)交響曲は音楽における新しい感性の到来を告げる作品であり、音楽表現のより広い視野を求むべく、古典主義的なソナタ形式の厳格さを過去のものとしている。特にこの作品については、指揮者たる者はその才覚をかけて、曲がもつ古典的なデザインとロマン主義的な内容との結合を実現させることがその使命である。更にこの曲のいかなる演奏も、憂いを秘めた切望から告別に到るまでの全てを表現する天才シューベルトを実現しているかどうかで評価されるべきである。どの時代を見渡してもこれほど多様な創造性をもつ作曲家は極めて稀である。
 残念ながら「未完成」交響曲はバックグラウンドミュージックとも言うべきほどポピュラーになっており、耳にする機会があまりに多い。というわけで、ここで美しく奏でられたジョセフ・ウォルフの鋭敏かつ巧妙で心奪う演奏がもたらした喜び(このようなシューベルト音楽の表現の極致を聴いてぴったり適当な言葉がみつからないが)について語るのはとりわけ喜ばしいことである。コントラバスによる静かなオープニングにヴァイオリンの神経質な主張がとってかわる。ここから第1楽章の広範な主題が始まる。時に激しく、時に静かに、シューベルトの持つ性格の全ての面が呈示され、適正なバランス感覚で、そして何ら欠けるところなく描写されていた。
 同じく第2楽章アンダンテ・コン・モートであるが、これは曲のタイトルどおり絶えることがない。ウォルフは思慮深くテンポを選んで幅のある表現を実現していた。それによってこの曲のスピリットを浮かび上がらせ、この音楽の本質である安らぎを更に強調することとなった。それは素晴らしい演奏であった。
 サン・サーンスのチェロ交響曲第1番(1873年)はこの作曲家の音楽形式上の発明をみるのによいサンプルである。通常であれば3楽章の素材を説得力のある形でひとまとまりに圧縮しており、これは彼のロマン主義的な感受性だけでなく知的な機敏さをも示している。批評家たちはサン・サーンスのこの曲に深みがないとよく言い立てるが、仮にそれが真実であるとしても、彼はその「罪」を彼が行った形式上の実験によって贖って余りある。それが最も当てはまるのがこのポピュラーな協奏曲なのである。
 オランダのチェロ奏者ピーター・ウィスペルウェイは正統なロマン主義精神をもって演奏し、冒頭楽章のスタートを真の情熱を持って推し進めていった。急テンポのスケールの楽節でも決してイントネーションを損なうことなく、様々に変化するムードにあって優雅に趣味よくバランスをとっていた。ウォルフの指揮によってウィスペルウェイは思う存分その艶やかな音色を披露し、オーケストラのバランスも巧妙に保たれていた。
 休憩を挟んでシベリウスの交響曲第1番が演奏された。これはシベリウスの民族的な、そしてしばしば文学的な着想の音楽の時代に終わりを告げ、抽象的な音楽表現をめざした作品である。実際この交響曲は、標題音楽でない交響作品を作る力を示してみよ、と迫るフィンランドの批評家たちへのシベリウスの答えである。シベリウスは、19世紀が世紀末を迎える時期にあって当時のフィンランドの音楽的英雄であり、このような作品の作曲に挑戦することには慄きと意欲の入り混じった気持ちを持っていたであろう。現実には、この種の音楽としてフィンランドの音楽史上初となることは、彼よりずっと若いフィンランド人であるエルンスト・ミエルクによって奪われてしまう。ミエルクはシベリウスより2年早く抽象的な交響曲を書いた真の若き天才であった。ミエルクの作品はマックス・ブルッフの弟子としては当然ながらドイツロマン主義の影響を受けている。シベリウスの作品は、所々チャイコフスキーにかなり似た響きをもつものの、ずっと彼独特のものである。しかしながら出だしのクラリネットによるソロは作品全体の雰囲気を作るのに決定的な役割をはたしている。このソロの旋律は最終楽章の始まりに再び登場し、モットー主題として扱われている。これが実は、シベリウスが1899年の初演の1年後に作品を改訂した際に追加されたもの(本当に見事な仕上がりではあるが)であるとはちょっと驚きである。
 ウォルフの指揮によるシベリウスの交響曲第1番の演奏で特に際立っていたのは、シベリウス本来の響きを出すために、チャイコフスキーのこの曲への影響を抑えて表現していたことである。えてして感傷的に流れがちな緩徐楽章においてすらそれはあてはまる。ウォルフは、変化する木管楽器の主題を、弦楽器が交錯するその上を抜けるように際立たせ、それがこの作品の構造に新鮮さを与えていた。各楽章が真正の動機(モメンタム)を備え、それが作品全体に形式上の統一感を与えていた。これは多くの演奏を聴いても稀なことである。最終楽章のコーダは、それまでに出てきたローラーコースターのように激しい感情の動きの総まとめであった。シベリウスはその後も次々と、まことに個性的な傑作を生み出していったが、そのどれをとってもこの交響曲第1番の核心を貫くロマン主義精神をこれほどに見せてくれるものはない。このシベリウス独特のキャラクターがこの素晴らしい演奏の中で前面に押し出されていたことはウォルフとロンドン・フィルの功績である。

エドワード・クラーク評




 英国の若き指揮者ジョセフ・ウォルフがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共にブライトンに初登場し、温もりのある、かつ豊かでエキサイティングな音楽を作りあげた。
彼は指揮台にあがり、指揮棒を振り上げ、そしてフランツ・シューベルトの交響曲第8番「未完成」の格調高い演奏を始めた。
ウォルフは体を揺らし、飛び跳ねるように動きまわる。そうして演奏に大いなる炎を注ぎ込み、極めて美しく繊細な音楽を緊迫した演奏に仕立てていった。
 サン・サーンスのチェロ協奏曲にはさしたる深みはないかもしれないが、オランダのチェロ奏者ピーター・ウィスペルウェイはチェロ協奏曲第2番の演奏で、色あせることのない花火の数々を確かに作り出していた。
 おしまいに、ウォルフはシベリウスの交響曲第1番の情熱的な演奏で、オーケストラからそれまでとはまた違った荘厳な響きを引き出して見せた。
 まことにスケールの大きな演奏であり、このスケールの大きさで彼は将来スターになるに違いない。

マイク・ハワード評
アーガス紙(ブライトン)2007年3月22日




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